北信濃・そば道中 -名そばと名店を訪ねて-


北信濃そばの名品 戸隠そば
北信濃地方を代表する俳人小林一茶の「月と仏とおらがそば」と歌にもあるように、

北信濃地方には戸隠や黒姫、信濃町、飯山、山ノ内など古くからそばが栽培されており、お客へのもてなしのあいさつ替わりとされ、食されて来ました。

戸隠地方では修験者がそばの実を懐に入れ、修行に励んだとも言われております。

北信濃地方はそれほど古い歴史と長く親しまれて来たそば文化が根付いております。

そのため各家庭でもそばを打ち、そこから数々のそばの名店も生まれております。


北信濃信濃町のそば畑風景



・北信濃名そばの産地

戸隠そばは別名「霧下そば」とも呼ばれ、高地で寒暖の差が大きく、霧が発生し易い場所で生育したそばのため、そう呼ばれております。
味よし、香りよしの戸隠そばは北信濃の気候風土が生んだ名産といえます。

一茶の里で知られる信濃町地域も戸隠山や黒姫山、妙高山の山麓に位置し、高地では霧下そばが栽培され古くから名そばの里として、知られております。
中でも凍りそばは柏原地域の名産で、茹でて冷水にさらしたそばを小さな輪にして、野外に干し凍結をさせる。
食べる時はそれを熱湯に戻して食します。



飯山地域の山間に位置する富倉地区は冬には3mもの雪に覆われる地域で、戦国時代はこの富倉街道を上杉謙信が川中島の合戦の折に往来をしたところで、その際村人が昼食に笹の葉の上にご飯と山菜等を載せた食べ物を上杉謙信に提供し、その食べ物を謙信がたいそう気に入り、現在の笹ずし、または「謙信ずし」が生まれたといわれております。
その地域でそばも古くから栽培され、そばを打つ時に、つなぎにモリアザミ科の植物でオヤマボクチという植物があり、その繊維をつなぎに使い、コシがある喉越しの良いそばに仕上がり、幻のそばとも言われております。


善光寺そばは善光寺の門前に、すでに江戸時代から多くの店が軒を連ねておりました。善光寺詣りに全国から参拝に訪れる人達により、よりそばが節差琢磨され、二八そばから一九そば、十割そばと店のこだわりのそばが提供されておりました。
特に寒冷地信州では暖かいそばも人気となっており、「鴨そば」や「しっぽくそば」など具沢山の贅沢な「温そば」も人気があったようです。
そば粉は黒姫、戸隠などから調達していたようです。

更科そば(更級そば)は現在の千曲市周辺の地域で栽培されておりました。
そばの特徴と致しましては、そばを挽くときに一番粉(そばの実を挽いたとき一番最初に挽かれて出て来るそばの中心の白い粉を言う)を使用し、白いそばが特徴。
現在ではいろいろなところで「更級そば」の看板を掲げているところがありますが、信州更級は松尾芭蕉が「更級紀行」で掲載しております、現千曲市から周辺の地域を指しております。

須賀川そばは信州山ノ内町の北志賀高原附近に栽培されております。
特に「はやそば」は長野県の無形民俗文化財に指定されており、地域の伝統そば料理として古くから親しまれて来ました。
そばを打つ際、つなぎに「オヤマボクチ」の繊維を使うのは飯山の富倉そばと同じ方法です。そばにコシが出て、喉越しが良いのが特徴です。

「はやそば」とはゆでた千切り大根にそば粉を入れ、混ぜた物をダシつゆに落として食べる独特なそば料理。

信州新町左右そば
信州新町に伝わる「左右そば」(そうそば)は左右高原で栽培され、毎年11月に「新そば」祭りが民宿4軒の協力でおこなわれております。
特徴は「九一そば」でつなぎの割合が少量なのが特徴で、その分そばの香りが濃厚で新そばはよりいっそう香りが引き立つ。

中野市(旧豊田村)涌井に位置し、唱歌「ふるさと」の舞台となった斑尾山の麓にあり、豊かな水と山間の地形が効をなし、霧下そばとして良質なそばが栽培されております。
そばは自家栽培で自分で石臼を引き、自分の店のお客様だけに提供している。
そばは二八そばが特徴。
現在3軒のそば店があり、土日には周辺のそば好きの人達でにぎわう。

   



そば通へのあれこれ

日本のそばの歴史
日本においてソバは縄文時代から栽培され食されて来た記録があります。
まだその当時は現在のソバ切りと言われる、細く切れているソバではなく、ソバの実を細かく砕き、それを「雑炊」や「焼きもち」みたいにして食していたようです。
現在のようなソバになったのは、室町時代に唐から入って来た素麺などがヒントになって、現在のようなソバになって来たと思われます。今から約400数十年前の時代といえます。
そば切りの発祥は甲州あるいは信州の木曽という説があります。
その後江戸時代に入り、安価のソバは江戸の庶民に好まれ、そば文化が発展してきたものいわれます。その時期から二八(そば粉8、小麦粉2の割合)そばが流行してきたといわれます。

北信濃のそばの歴史
北信濃ではそばが文献などにより確認されているのは室町時代戸隠の修行の山伏などがそばの実を持ち歩き、それをすりつぶし、水で掻いて食べたりしていた事が記録されております。その当時はまだ現在のように切れているそばではなかったと思われます。
戸隠において初めて「そば切り」が振る舞われたのが1709年頃と言われております。その後戸隠講で戸隠に訪れた人達にそばが振る舞われ、全国に「戸隠のそば」が知れ渡ったと言われております。その当時のそばは椀か大きめのそば猪口にそばを入れ、そこに大根のしぼり汁を入れ、味噌で味付けをして食べていたと言われております。
しかし江戸時代になると「戸隠のそば」はかなり有名になって来ており、戸隠講や善光寺詣りの際には戸隠に立寄りそばを食していたようです。
北信濃には戸隠のそばの歴史と共に信濃町、黒姫、飯山、山ノ内とそば切りが広まり、縁日や晴れの日にそばが振る舞われ、次第に広まって来た物と思われます。

そばの栽培の好条件とは
そばは標高1000メートル位の火山灰土の高地で栽培されますと良質のそばが採れると言われております。この風土がもっともそばの栽培に適しているといわれております。そばはもともと肥沃な土地、温暖な気候での栽培には向いていません。そばが良質だとされるのは、霧の多い気候が大きな理由でもあります。高原は平均気温が低いだけでなく、昼夜の温度差の激しい高原特有の気候であるため、蕎麦の甘味が増します。高原野菜が美味しいのも同じ理由です。この激しい気温差はよく霧を発生させます。こうした土地に育ったそばは『霧下そば』と呼ばれ、風味が高く旨味が凝縮されています。
北信濃では戸隠や黒姫、信濃町、涌井など高地で収穫されるそばを「霧下そば」と呼んでおります。

信州には多くのそばの産地があります。それはアルプスなど多くの山岳が連なり、高原状の箇所が多く存在し、そばの栽培に適した気候風土が保たれているところにあります。


そば粉について
そばには黒いそば、白いそばといろいろあります。これは製粉の仕方に違いがあります。そば粉には玄そば(殻付きのそばの実)を挽く順番で「さらしな」「一番粉」「二番粉」「末粉」があり、最後になるほど挽きつめた繊維が多く香りが強いものになります。色もこの順番で黒くなります。「一番粉」「二番粉」にこだわれば「一番粉」はほのかな甘みがあり、「二番粉」は香りと歯ごたえが楽しめます。

そばつゆについて
江戸っ子はつゆにそばをどっぷり浸けるのは野暮といいますが、信州人もそこらへんはちょっとこだわっています。そば猪口とつゆ入れが別々に来る店では、そば猪口の底に1cm位の量のつゆを入れてそばを浸けると、麺と汁が程良くからまっていい具合です。少なくなったら少しずつ足しながら味わいましょう。
現在は鰹だし、コンブだしなどにみりん、醤油などで味を整えております。そのたお店に寄ってそばつゆもいろいろ工夫しているところもあります。

そばの体への効能
そばの中に含まれるルチンは血管の若返り、脳出血の予防などに効果があり、
ビタミンPともいわれ、栄養成分の一つです。
毛細血管の働きを安定、強化させ、弾力性がなくなりもろくなった血管を新し い弾力のある血管に取り替える働きがあると言われています 。
ビタミンCの食品と一緒に取るとより効果が強められます。
そばを茹でる間に約3割りが湯の中にとけだしますので、そば湯を忘れずに飲みましょう。
成人病、老化の原因と指摘される活性酸素を除去、あるいは生成を抑制する、
抗酸化性を持つ成分が蕎麦の実や殻に多量に含まれていることもわかってきました。


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